「日本のいちばん長い日(決定版) 運命の八月十五日」を読み終えた
戦後69年。
ご存知の通り、69年前の昭和20年8月15日は、日本にとって大きな歴史の転換点だった。
その前日の8月14日は、終戦に係った人にとって、もっとも長い日になった。
この本を読むと、たった一日だが、その密度の濃さは、計り知れないものがあるように思った。
本文に
これは、”二十四時間の維新”である。しかもそれは主として国民大衆の目のとどかないところでおこなわれた。
維新ほどの激しい変化がこの8月14日に詰め込まれたようだ。
ポツダム宣言を日本が受けたの7月26日ころ。
ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英語: Potsdam Declaration)は、1945年(昭和20年)7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言。 他の枢軸国が降伏した後も抗戦を続けていた日本はこの宣言を受諾し、第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)は終結した。 (ウィキペディアより)
ポツダム宣言の受け取ったときの日本は
開戦いらい4年、戦局は日本に絶望的なものとなっていた。世界を相手に一国となって戦い、降伏するか、徹底抗戦か、日本の運命を決すべきときがせまっていた。・・・・多くの関係者は突然のようでもあり、当然来るべきものがきたと感じながらポツダム宣言を受け止めた。
その時日本が気にしたのは、ソ連がその宣言に組しているかだった。
ポツダム宣言を受けて、日本は、ソ連の動きに目を向けていたようだ。ソ連に終戦の仲介を頼もうと言うと考えもあったようだ。
これが最後通牒とはだれも思っていなかったようだ。
黙殺状態が続いたようだ。
当時の鈴木首相も重大なものとは思っておらず、まだ戦争完遂を目指す考えだったようだ。
国民にも伝えられたが、国民の戦意をおとしめるようなところは削除された。
まだ、この時点では、日本政府も楽観的であったのかもしれない。条件をつけるという話もでていたようだ。
一日が過ぎ、政府としては気になるソ連の反応を待つという日を過ごすこととなった。
しかし、日本はそんなに時間がなかった。
そんな、日が続いた8月6日、広島に原爆が投下された。新形爆弾で被害の大きさは想像を絶するものだった。このことは、日本政府を慌てさせたのは当然だ。
それから日本政府の動きは、戦争完遂から終戦に向かい始める。
こういった当時の政府の様子が細かく書かれていた。まだ、この辺りは本の初めの方。
日本の命運を決する政府にとっては長い一日となる8月14日に向かっていく。
8月6日の広島原爆投下後もまだ、完全にポツサム宣言を無条件に受けるという流れではなかった。終戦の方向に向かっていたが、有利な条件を付けて終戦に持ち込もうという考えがあった。
そんな時に、8月9日ソ連が参戦の報に接し、閣議は紛糾して暗礁にのりあげていた。そこに、米内海相がポツダム宣言の受理の条件を閣議に提示し検討をしている最中に、長崎に原爆が投下されたという一報がもたらされた。
その場においても、無条件降伏と言うとことにはならなかった。鈴木首相はこの膠着状態を打開するため、午後から、鈴木首相の再度の御前を開くこと提示し、午後から御前会議が開かれたが、結論に至らず。最後は、天皇の聖断により降伏を決定した。
しかし、それは無条件降伏ではなかった。連合国側の望むものではなかった。
連合国とやりとりする間も時間は過ぎて行った。一番の問題は「国体護持」であった。その点で話が合わなかった。
8月14日早朝、鈴木首相は、異例に再度の聖断を仰ぐこと決めた。時間がないため方法も異例であった。
この御前会議で無条件降伏が決まることとなり、終戦への準備が急ピッチに進むこととなる。長い一日が始まった。
15日の玉音放送までの間、無条件降伏降伏に反対する動きと、それと並行して、降伏を国民に告げる告げる玉音放送の準備が競争のように激しく動き始める。
この時代に生きた人の思いが交錯する。
終戦において、鈴木首相の働きは、後世に語られることはなく、終戦時の首相と言うと印象しかなかった。
政治的評価は低かったようだが、この時は、政治というものを抜きした力が時代を動かすことができたのだと思った。
8月15日の終戦時も微妙な間合いで辿りけたものだったのだと思う。
8月14日から8月15日の玉音放送放送までのこと(24時間の維新)が、時間をおって書かれている。